十八年・・
忘れられません
そして忘れてはいけないんでしょうね
阪神淡路大地震
午前5時46分でしたか、この時間だったから
良かったのかもしれないと思うことも有ります
大勢の皆様が活動を開始する以前だったことが
良かったとの見方も有ります
あの日、
地震で目覚めてすぐに事務所に向かいました
大阪近郊に暮らしていましたが
ご近所ではブロックの塀があちこちで倒壊
幸いなことにそれ以上の災害は見られませんでした
引き越したばかりの事務所もロッカーが一台倒れた程度の被害
しかし社員の姿は見られません
神戸に住む社員に連絡、電話が通じません
宝塚・・・連絡付きません
次々と電話しますが連絡の付いたのはわずか三名
出社に及ばずと言いましたが電車が止まってしまってました
昼過ぎ次々と連絡が入ってきますが全て動きが付きません
午後、大阪市内の得意先を訪問しようと出かけましたが
酷い惨状に唖然としました
淀屋橋周辺のビルの窓ガラスは全て割れ、ガラスが歩道、車道に
積み重なって通行すら出来ません
諦めて帰社することなく帰宅しましたが
梅新から10Kの豊中までに要した時間は5時間
渋滞でまったく動きません
翌日
連絡の付か無かった社員からも、無事だとの連絡が有ったが
神戸の社員のマンションは傾き、住めないので東灘の公園に避難
宝塚の社員は自宅が半壊、近所の親戚の家に避難
社員を二手に分けて神戸・宝塚に向かいました
私を含め4名は神戸に
お握り・お茶・水・その他食料品をもってとりあえず
行ける所まで行こうと阪急に乗りましたが西宮北口まで・・・
阪神国道2号線をテクテク荷物を持って歩きました
神戸に近づくほど地震の影響は大きく
倒壊した家屋、神社
まだ煙の上がっている家、中にはチロチロ火の見える住宅も・・・
道路をふさぎ倒壊した家・・・この家の方はどうなったのかと
何時間懸ったのか記憶が薄れていますが
目的つの東灘の公園には姿が見えず
大ぜいが灘の公園にうつったと聞き気を取り直して
灘区の公園を目指し
やっと合うことが出来たのは夕刻に近かった
その日から次々とクライアントからの物資調達の連絡が入り
本当に忙殺された2ケ月でしたが
6400名以上の方が無くなった中
ほとんど被害らしい被害にあわなかったことに
感謝です
東北の震災もこれ以上の震災・津波・・・・
出来ることが有ればと思いますが
何も出来ていません
1月も3月も忘れてはいけないと念じます
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コメントの投稿
飛天さん
こんにちは
確かに間違いでした、ご指摘ありがとうございます
「悔いを」残さずでございました
失礼いたしました
確かに間違いでした、ご指摘ありがとうございます
「悔いを」残さずでございました
失礼いたしました
笑!!!
漢字変換ミスなのか、はたまた、ウケを狙われたのかどうか、判断しかねるのですが、、、
めいきらさんのレスの最後の部分、、、
「日々精一杯喰いを残さず・・・」
という部分には、思わず吹き出してしまいました
でも、そのとおりですね、日々、「喰い」と「悔い」を残さず生きていきたいもんですな

めいきらさんのレスの最後の部分、、、
「日々精一杯喰いを残さず・・・」
という部分には、思わず吹き出してしまいました

でも、そのとおりですね、日々、「喰い」と「悔い」を残さず生きていきたいもんですな


飛天さん
こんにちは
そうですか近鉄電車は動いていたんですか
近鉄は中央を走っていますし被害が無かったんでしょう
良く出勤されましたね
大阪の街中はビルが揺れたせいでしょうね歩道と言わず
車道と言わず大小のバラスが降り積もった様になってました
そうですか母上様は亡くなられたんですかそれはそれは
ほんと人生て判らないことばかり・・・・
日々精一杯喰いを残さず生きていきたいですね・・・・ホント
そうですか近鉄電車は動いていたんですか
近鉄は中央を走っていますし被害が無かったんでしょう
良く出勤されましたね
大阪の街中はビルが揺れたせいでしょうね歩道と言わず
車道と言わず大小のバラスが降り積もった様になってました
そうですか母上様は亡くなられたんですかそれはそれは
ほんと人生て判らないことばかり・・・・
日々精一杯喰いを残さず生きていきたいですね・・・・ホント
あれから18年、、、
あれから18年、なのですね
当時の私は未婚で、実家で両親と3人で暮らしていました、たまたま、実家のテレビは故障していて、いつもどおり大阪の職場に出かけるべく家を出たところ、通勤に利用していたJRは不通で、不審に思いながら近鉄の駅まで歩き、満員の近鉄電車に乗ったりバスに乗ったりして、とにかく、訳がわからないまま、職場に行き、職場で震災のことの知りました
で、その日は、なんとか仕事を終え、再び、近鉄電車に乗って家に戻り、母の作ってくれた夕食を食べながら、震災の凄さなどを両親と話しましたが、その母も今から7年ほど前に、持病も恢復しつつあったにもかかわらず、早朝、いきなりこの世を去りました
人生ってわからないものです、だからこそ、鳥のように一瞬一瞬を思いっきり明るく素直に飛ぶことが大切なんだろうな、と、思います

当時の私は未婚で、実家で両親と3人で暮らしていました、たまたま、実家のテレビは故障していて、いつもどおり大阪の職場に出かけるべく家を出たところ、通勤に利用していたJRは不通で、不審に思いながら近鉄の駅まで歩き、満員の近鉄電車に乗ったりバスに乗ったりして、とにかく、訳がわからないまま、職場に行き、職場で震災のことの知りました

で、その日は、なんとか仕事を終え、再び、近鉄電車に乗って家に戻り、母の作ってくれた夕食を食べながら、震災の凄さなどを両親と話しましたが、その母も今から7年ほど前に、持病も恢復しつつあったにもかかわらず、早朝、いきなりこの世を去りました

人生ってわからないものです、だからこそ、鳥のように一瞬一瞬を思いっきり明るく素直に飛ぶことが大切なんだろうな、と、思います
